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​岡本文弥

​1895-1996

​お か も と     ぶ ん や

明治28年(1895年)1月1日、谷中上三崎南町に生まれる。本名井上猛一(たけいち)。父田崎源次郎は煉瓦職人、のち土木請負業。母とらは芸名鶴賀若吉(富士松加賀八を経て、のちに三世・岡本宮染)という新内語り。門前の小僧として新内節を学ぶ。京華中学卒業後、早稲田大学に進むが中退。若き日の文弥は「秀才文壇」や「文章世界」などに投稿する文学青年であった。大正2年(1913年)富士松加賀路太夫を名乗り、「秀才文壇」を発行する文光社で職を得て、昼は編集の仕事をし、夜は新内を流す日々を送る。

大正12年(1923年)、母と共に独立して岡本派を再興、岡本宮太夫となり、後に岡本文弥と改名。母の養女である妹の四世・岡本宮染の三味線とコンビを組み、母から受け継いだ古典曲の伝承につとめる傍ら、文才を生かして精力的に新作新内を創作・発表。生涯に発表した新作は300曲にも上る。築地小劇場を中心としたプロレタリア演劇に影響を受けて創作した「西部戦線異状なし」「太陽のない街」「磔茂左衛門」等の革新的な新内は「反戦新内」「赤い新内」とも称されて評判となり、山本安英、村山知義らとも長く交流があった。また、昭和11年(1936年)の「滝の白糸」「唐人お吉」の発表を皮切りに、藤蔭静樹、藤間勘妙等の舞踊家との共同作業による新作を次々と発表。新内舞踊の道を開拓して高く評価される。

 

昭和32年(1957年)、芸術選奨文部大臣賞受賞。同年、無形文化財新内節記録保持者に指定。昭和36年、芸術祭参加作品「旅人かえらず」で平井澄子と競演、芸術選奨奨励賞を受賞。昭和39年(1964年)、日本民族芸能代表として訪中。以後十数回に渡り訪中を果たし中国曲芸に親しむ。昭和43年(1968年)、紫綬褒章受章。昭和46年(1971年)、大西信行作詞による「円朝恋供養」で芸術祭優秀賞受賞。昭和49年(1974年)、勲四等旭日小綬章受章。昭和63年(1988年)、松尾芸能賞優秀賞受賞。平成2年(1990年)、伝統文化ポーラ大賞受賞。平成5年(1993年)には齢98歳にして韓国の従軍慰安婦問題を取り上げた新作「ぶんやアリラン」を発表して話題となった。平成7年(1995年)、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)芸能功労者に選出。

 

生涯を現役で通し、平成8年(1996年)10月6日、満101歳の一生を終える。妻は五世・岡本宮染。新内研究書の他、随筆家、俳人としても知られ、洒脱な文章で多くの著書を残した。「コツコツ生きる。仕事する。」を座右の銘に、大正・昭和・平成を貫く息の長い活動を通して新内節の近代化と普及に大きく貢献。ジャンルを超えた多くの文化人たちとの交流により、邦楽界にとどまらず、邦楽に興味のない人々にも広く知られた稀有の存在であった。

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文弥自筆による新内系図(1996年以降を後に加筆)
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