文弥を支えた人々
三世・岡本宮染
慶応3年(1867年)寅年生まれ。本名とら。芸好きの父の影響で姉二人(のちに鶴賀清寿、清兼)と共に新内を習い、鶴賀若吉の名を許される。「三姉妹」は両国広小路の小屋にも出演し人気を博す。後に田崎源次郎(文弥の父)と結婚。夫の兄は鶴賀島太夫(後に鶴賀若狭)と名乗る新内語りだった。結婚後は新内を辞めていたが、文弥の父が仕事で満州に渡って後、生計を立てるために芸道に復活。東京小石川原町の長屋で新内の師匠となり、大正12年(1923年)岡本派の再興に際して岡本宮染と改名し。短期間ではあるが家元を名乗った。生真面目な性格で、江戸時代から伝わる膨大な古曲を習得し、それを忠実に伝えることを守った。一方、文弥が試みた新作の三味線を弾き、文弥を盛りたてた。
昭和25年(1950年)12月13日没。
四世・岡本宮染
明治38年(1905年)東京生まれ。
本名、延島みつ。
文弥の母(富士松加賀八)の養女となり、新内を学ぶ。富士元喜鶴にも師事した。はじめ、富士松八十秀を名乗り、後に岡本せつ子、岡本宮之助を経て、四世宮染を襲名。文弥の相三味線として文弥の芸を支え、作曲・演奏に大きく貢献した。没するまでの全ての文弥の新作の三味線をつとめ、曲によっては文弥作品のアレンジにも関わった。特に古曲に関しては三世・宮染から膨大な古曲を継承。曲数・理解度ともに文弥を越える程のものを持っており、「わたしはおっかさんのノート」という言葉と共に正確な継承を守った。女流ながら骨格の太い三味線は邦楽界での評価が高く、平井澄江など当時の女流の三味線奏者の憧れでもあった。
三世・岡本宮之助(現宮之助)の祖母。
昭和53年(1978年)10月7日 没。
三味線芸談
四世・岡本宮染
杵屋寒玉さんが亡くなったとき、ハンド・マスクってえのをとったって、むかし「都新聞」で読んだことがありましたけど、左の手のほうをとったんですってね。……わかりましたねェ、指の方がたいせつなんだって。
芸談?! イヤ、イヤ......イヤッ......。
三味線を弾くときは、姿勢ですね。よく首を回わしたりするひとがいらっしゃるけど......、不動の姿勢ってえんですかねえ、わたしはそう心がけています。
新内の三味線って、単調でしょ。それだけにむつかしいんじゃないでしょうか? わたしのは手前勝手なんだけど、平面的じゃおもしろくないんで、平面的にならないようにね
新内でも常磐津でもかならず三味線のかけ声で出るわけでしょ。舟で言えば、主人と舟頭の関係で、三味線は舟頭役。だから、「さア、どうぞ」って、いつでも草履でも足袋でも揃えておいて、一歩々々先へ出ているわけね。だから、三味線弾きは全部マスターしてなけりゃできない。
三味線はうたのあいだ、あいだに入って行くもんだとおもいますわ。両足をたがいちがいに出すのとおんなしに、いっしょになっちゃったら、跳び上がるより他にないでしょ。これでは両方がイキがつけなくなっちゃう。かけ声をかける余地もなくなっちゃう。......ダメね、やっぱり、あうんってえいうんですかね。
(中略)
三味線はうたの邪魔にならないように、うたが気持よいときはこっちも弾かないでうっとりしていることもあるわ。そうね、百回演奏して百回ともおなじってえことはないでしょうね。
高座でいっしょに歌ってなけりゃ、弾けませんもの、こっちも語っているわけですよ。
上手なひとの三味線を聴くと、態度といい、快刀乱麻ってえいうのかしら、私もあんまりよけいな手なんか入れないで、スパッ、スパッと弾けるようになりたいとおもうわね
(「新内曲符考」より)
五世・岡本宮染
本名、佐野しづ子。
明治45年(1912年)名古屋生れ。
昭和21年、常磐津文字増の紹介で文弥と結婚。四世・岡本宮染に師事。長く文弥の上調子をつとめ、志づ子、宮之助、美弥之助を経て、昭和55年、五世宮染襲名。昭和64年(平成元年)新内岡本派六世家元。四世・宮染の没後、文弥の全作品の相三味線をつとめた。また、後進の指導にも力を注ぎ、岡本派の芸の伝承を支えた。下町文化賞受賞。
平成17年(2005年) 1月4日 没。