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新内古典研究

岡本文弥は多くの斬新な新作新内を創作する傍ら、母・三世岡本宮染から受け継いだ新内古典の研究にも力を入れ、古曲の発掘・記録・正しい伝承に力を注ぎました。『新内浄瑠璃古正本考』『新内曲符考』(四世・宮染との協働)『遊里新内考』『定本新内集』などの著書の中にそのライフワークの一端を見ることができます。

 

​  誰に頼まれたというわけでもない。かねてからぜひやりたいと思っていた、やらねばならぬと思っていた。やり出したら面白くて楽しくて寝食を忘れました。こんな仕事やれるなら食わなくてもいいや、と思う。その一方何やかや、まとめることに骨が折れ、シンが疲れました。でも、新内のためにいい仕事をした、と満足しています。

 昔の木版稽古本の美しさ、古いほど美しいのが不思議です。年々歳々進歩発展して、より美しくなるというのなら分るのですが、古いほど美しく、新らしいほど低俗なのです。木版稽古本に限って言えば、時代を逆のぼるほど美しい。だから尊く貴重です。新とは浅薄醜悪の代名詞かと軽蔑したくなる。

 とりわけ古風な書体の魅力は、見るひとを新内情緒の閨房に誘って、あのクドキブシの甘さもて、二百余年過ぎ来し方のあわれをしみじみと訴えささやくことでしょう。

 ほんとうは歌詞全文も一しょに、一段一曲完全なものとして写真でまとめたかったのですが、これは経済の点で出来ない相談ですし、活字で添えるということも、私の体力に限りあり、あきらめました。前著「新内曲符考」といい、この本にしても、私の仕事はキッカケを提供することですから、あとは野となれ山となれでなく、あとは若い有志の方々の、息の長い研究にお任せしたい、というのが私の本心です。

​ この際書き添えておきたいのは、戦後邦楽諸流の中で新内ほど崩れのひどいものはないということ、演奏形態の堕落を痛罵したいけれど「好みは十人十色」の逃げ道がある。古曲にしがみついているけれど古曲を愛しこれを尊重する良心がない。知らぬ部分を先輩古老に教えを乞うでなく自分勝手に節付する、これが古曲で罷り通る。珍らしい古曲を「新内離れ」と軽蔑無視する、或いはそんな古曲のあることさえ知らない。日常の演奏会でも皆さまご存知の曲ばかりで世界が益々狭くなる。すくなくとも百はあった新内浄瑠璃だけれど現在一般に演奏されるのは、ひいき目に見ても三十曲前後、そして実力者は段々といなくなる。本格の新内は既に滅びの第一歩と言えるでしょう。そこでこの古正本です。せめてその表紙部分だけでもお目にかけて、新内にもこんな曲があるのですと吹聴し、こんな曲もあったのですと証明したい。

 静かに古正本の風格を楽しみ味わいたい気持からこの本の刊行を企画したのですが、日々に崩れゆく姿を見兼る現在では、この古正本集成は一つの「新内節身分証明書」であり、真に新内節を愛好される方々はこの本を座右にして、せめて、昔を偲び給え、夢見給えと言いたいのです。
 

一九七九年 初春 岡本文弥 
「新内浄瑠璃古本正考」(1979) あとがき

 古曲を古曲のまま保存伝承するにしても、古曲を土台として新らしい創作活動をするにしても、どちらにしても古曲そのものをじゅうぶん理解してでなければ手も足も出ません。コトや長唄はもちろん、義太夫でも清元でもうた沢でも、一中節や宮園を含めてのいわゆる「古曲」でも、当世流行の小唄ともなれば一そうのこと、実演者でない「研究家」がいていろんな角度からその流儀のさまざまを研究し、その成果を発表してくれます。実演者はそれに学んで、ひたすら芸一途に努力すればいい。羨ましい限りです。

 新内の場合は、古くは町田嘉章(佳声)先生の研究があり、それに続いて藤根道雄氏の「新内資料室」があり古版正本から錦絵、レコード、録音テープと実に豊富な文献資料が保存され、有志はいつでも観覧見学の自由を許されているのですが、研究成果の発表については、室長は慎重に慎重をかさねてなかなか実現の運びにならない。恐らく私の生きているうちには望めないのではないかと、ひそかにサジを投げるほかありません。

 そこで、ここいらで何か形にまとめておかぬことには、後世研究を試みようと思っても手づるもつかめぬ憂いがある。私でなければ—というような思い上がりはぜんぜん持っていません、だれでも出来る仕事で、しかしだれもかれもやろうとはしてくれない仕事です。しかし新内のためにはどうしても残しておかねばならぬこと、たいへん重荷であり、ガラにないこととも思うけれど、ふんぱつして自分でやることに覚悟をきめました。出版のイキサツを一応明かにしておきます。

(中略)

 

 私はこの本をまとめながら二百年前の鶴賀若狭掾のことや、百年前の富士松魯中のことや、いろんな曲に歌われている遊女たれかれのことなどをなつかしく思い浮かべたり、悲しくあわれに追慕したり、それにつけてもこれみな新内につながる縁よと思ったりしているのですが、この本に依る有縁の方々も、新内がこれからも幾久しく、たとえほそぼそとであってもいい、歌いつがれ語りつがれ、心あるひとびとの胸に何かしらあたたかな情けの灯をともすことができますよう、願いをこめてくださいと、祈ります。

あとがきを書きつづりたる炬燵かな

ちり鍋やあとがきをいま書き納め

あとがきを書いて安心年惜しむ

まぼろしの遊女咳すること哀れ

LIQUEURと遊女と私冬障子

昭和四十一年十二月二十五日 谷中にて

岡本文弥「遊里新内考」(1967)

あとがき より

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こころがまえ

 新内に縁のあるみなさんは、今から二百何十年前「明烏」や「蘭蝶」を作って新内を世の中へ送り出した初代鶴賀若狭掾(天明六年一七八六年三月二十二日死七十歳)の恩を忘れてはならない。それから百年、新内が乱れ崩れかけた時代に「膝栗毛」「まさ夢」など異色の新作を発表して中興の祖とたたえられる富士松魯中(文久元年一八六一年六月二十日死六十四歳)の恩を忘れてはならない。

 新内は、西の義太夫と並んで「語り物」の浄瑠璃音曲の代表です。フシと声だけを売り物にする「唄」ではない。新内の芸の正体は「心」であり「腹ハラ」であり、歌う部分も大事だけれどそれと一しょに「コトバ」(一般にはセリフとも)をおろそかにしては成り立ちません。勉強のためには義太夫をよくきいて下さい。語りも三味線も「きれいごと」だけでは「新内浄瑠璃」とはいえないのです。悪声で名人になった新内語りもいるのです。誇りと覚悟を忘れずに「語り」の勉強をして下さい。

岡本文弥「定本新内集」まえがき 

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