むかしむかし宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)というひとがおりました。
かれは初め、京都で一中節(いっちゅうぶし)を語って活躍をしていたのですが、だんだん自分の感情を、静かな一中節では表現し切れなくなりました。もっと情熱を吐き出すことのできるような、抑揚の激しいフシで歌いたい、語りたいと、悩みに悩み、工夫を重ねました。そして自分独特の芸風を作り、独自の道を行く自信がつきましたので師匠の了解を得てひとり立ちしました(1730年ころ)。彼の芸風、すなわち豊後節一流は殊に江戸で大きに受けました。
豊後節に浮かされて心中や駈け落ちが流行したと言い伝えられています。その芸風は「抑え付けるものを刎ねのける」ように新鮮であったことでしょう。芝居出語りも町の稽古所も大繁昌でありました。よそものの豊後節が江戸の人気をさらったのですから風当りも強く、その風吹き荒れてとうとう「豊後節禁止」のおふれが出て(1739年)詮方なく
豊後掾は京都へ帰る。然し多くの弟子たちは江戸に執着を持ち何かと江戸で芸渡世を続けたいと努力する。結局、看板を変えるほかないからそれぞれの持ち味を生かすというようなことで独立して新らしい流派を名乗りました。
「常磐津」「富本」その「富本」から別れて「清元」ができた。そのほかに「富士松」というのもできました
―― 新内の元祖です。
「富士松」にはそれ程の特色はなかったのですが一門の敦賀太夫というのが間もなく独立して鶴賀若狭掾を名乗る(1758年頃)。すなわち鶴賀派の元祖ですがこのひと芸才文才を兼ね備えて「蘭蝶」「明鳥」みな自作という大入物です。するとまたその一門に新内というひとがいて、これが無類の美音です。美音という以上にたいへんな魅力の持主です。伝説に依れば「鼻へ抜ける声」にたまらない味があって誰も彼もこの新内の芸風をまねて、みんな声を鼻へ抜いたというのです。
こうなると世間では「富士松」とも「鶴賀」とも言わないで「あれは新内」とばかり言う(1770年頃から)。
「新内はいいね」であり「新内をききに行こう」であり「新内を習おう」ということ、富士松浄るり、鶴賀ブシを総称しての「新内」であり、この名称が現在に続きます。関西浪花ブシの吉田奈良丸がハヤり、奈良丸くずしができ
たりしていまでも話題になるくらいに奈良丸々々ともてはやされましたが然し「奈良九」が浪花ブシの総称にはなら
なかった。時代の流れや地域の関係もありますが、それにしても新内という芸人の芸の魅力のすばらしさ、その魅力
の正体は何でしょう。一部からは乞食ブシと非難された「鼻へぬける」声とそのフシ廻しの味でしょうか。
師匠の若狭掾は新内の芸風を嫌って「すっぽんと共に見らるる池の月」とうたったそうですが、どちらにしてもその
魅力がいわゆる「上品」や「高尚」とは反対のものであったことに間違いない。
私はそれを「卑賤美」と言いたいのですが、現代人は「卑賤」という表現に抵抗を感じるかもしれません。
「低俗」というのもあります。「卑賤美」は「芸」ですが「低俗」は「芸」とは無縁です。低俗新内の横行を許して
はなりません。
新内の芸風は無論「低俗」でなく「卑賤美」であったわけで、「蘭蝶」「明鳥」等々の若狭掾作品の遊里曲がその
新内の芸風に依って初めて語り生かされたという事実を無視するわけには行きません。いろんな変化があったにしてもいわゆる「新内ブシ」の正体は新内の芸風であるというほかなく、現在から将来へかけて伝統新内ブシ継承のためにはその芸風を尊重すべきであると信じます。古曲を土台とした新曲の場合もこの正体を失なってはなりません。
~ 定本 新内集・岡本文弥編<同成社>より抜粋 ~